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東京、任意売却

2021/02/11
ロゴ
住まいの知恵袋をご覧いただきありがとうございます。
 
 
価格
7,380万円値下げ
満室時利回り
(満室時年収/月収)
6.79%

(501.6万円 / 41.8万円)

物件名

渋谷区 店舗事務所

住所
東京都渋谷区幡ヶ谷3
交通
京王新線 幡ヶ谷駅 徒歩10分

建物・土地情報

築年月
1991年12月(築29年)
専有面積
124.07m²
間取り
事務所 
建物構造/階数
RC造1階/4階建 総戸数15戸
土地権利
所有権 

管理情報

管理費/修繕積立
52,000円 / 27,050円
管理会社
コミニティワン(株)
管理方式
全部委託

契約情報その他

取引態様
仲介
引渡
相談
現況
賃貸中
 
 
渋谷区幡ヶ谷は、東京都渋谷区北部にある地名である。地名「幡ヶ谷」の指し示す範囲には以下の2通りがあり、本稿では両者とも扱う。 汎称地名としての「幡ヶ谷」。これは旧幡ヶ谷村の全域に相当し、現行行政地名では本町一〜六丁目、幡ヶ谷一〜三丁目、笹塚一〜三丁目が含まれる。 渋谷区の現行行政地名としての「幡ヶ谷」。
 
 
1082年(永保2年)に源義家が後三年の役から帰る途中、小笠原窪(現在の本町付近)にて白旗を洗い、檜に掲げて祝宴を行ったことに由来するとされる[。跡地は現在高知新聞社社宅「洗旗荘」となっており、由来を書いた区の立て札と東郷平八郎揮毫による「洗旗池」の石碑がある。
 

幡ヶ谷の起源は定かではないが、村の氏神である氷川神社と、そこから伸びる国分寺道・中幡ヶ谷道周辺に集落が形成されたのが村の始まりであると考えられる。「幡ヶ谷」の名前が古文書に初めて現れたのは戦国時代、後北条氏が関東一円を掌握した時期の小田原分限帳であるという。その後、後北条氏が滅びて関東八カ国が徳川家康の領国となり、つづいて江戸幕府が開かれるに当たり幡ヶ谷はその大部分が幕府の直轄地となって、そのまま明治を迎えた。

旧版地図等によると、甲州街道沿いを中心に古くから集落が形成されていた。江戸時代末期には幡ヶ谷は豊島郡に属し、豊島郡幡ヶ谷村と称していたが、1878年(明治11年)に豊島郡の一部をもって南豊島郡が設立されるに及んで南豊島郡幡ヶ谷村となった。その頃から幡ヶ谷村は南隣の代々木村と連合して役場や学校を設けるなど関係を深めていたが、1888年(明治21年)に市制・町村制が公布、施行されるに及んで、翌1889年(明治22年)に正式に合併して代々幡村となり、1915年(大正4年)に町制を施行して代々幡町となった。1914年頃の幡ヶ谷地域内の京王線開通ならびに1923年(大正12年)の関東大震災を契機に宅地化が進んだ。町制施行以前に南豊島郡はすでに東多摩郡と合併して豊多摩郡となっていたので、幡ヶ谷地域は東京府豊多摩郡代々幡町大字幡ヶ谷と呼ばれ、地域内に幡ヶ谷本村・下町(現在の本町が該当)、中幡ヶ谷・原町(現在の幡ヶ谷が該当)、笹塚の5つの小字を有した。

昭和初年まで幡ヶ谷地域では農業が広く行われており、通行人が狸に化かされた怪談話[が伝わるほど人気の少ない淋しい地域だった。

1932年に東京市が近隣の5郡82町村を編入することになり、豊多摩郡に属する代々幡町も東京市に編入されることとなった。新宿を生活の拠り所とする代々幡町は当初、同じく新宿と関係が深い淀橋町や大久保町などと共に一つの区を形成することを希望していたが、同じ郡の2~3の町村が合わさって一つの区を作るとのルールがあったため、仕方なく渋谷町・千駄ヶ谷町と組んで一つの区となることを受け入れた。新区名についても、当時は渋谷よりも明治神宮のある代々木の方が知名度が高かったことなどから「代々木区」とすることを希望しており、これに渋谷町が反対すると妥協案として「宮区」(幡ヶ・千駄ヶ・渋の3つの谷、すなわち「三谷(みや)」と明治神の「宮」をかけたもの)とする案も提示していたが、東京府議会と関係の深い渋谷町議会議員により新区名が半ば強引に「渋谷区」とされ、幡ヶ谷地域は渋谷区の一部となった。

以上のような経緯により代々幡は東京市に編入されて旧渋谷町、旧千駄ヶ谷町と共に渋谷区を形成することになったが、幡ヶ谷地域ではその後工場の立地が進んで「幡ヶ谷工業地帯」とも呼ばれるに至り、同時に宅地化も進んだ。現在では新宿に近い利便性からかつての農村風景は遠く失われ、住宅地・商業地となってマンションや店舗が立ち並ぶ賑やかな街となっている。

1932年の東京市編入の際、幡ヶ谷の小字も整理され下記の4町名に再編された。

幡ヶ谷本町一丁目~三丁目(←幡ヶ谷本村・本村北・本村西・下町) 幡ヶ谷中町(←中幡ヶ谷) 幡ヶ谷原町(←北原・南原) 幡ヶ谷笹塚町(←笹塚)

 

1968年(昭和43年)1月1日に、住居表示を実施。幡ヶ谷一丁目・三丁目の全部と幡ヶ谷二丁目の一部をもって現行の幡ヶ谷一丁目~三丁目が成立した。

1960年(昭和35年)に町界町名地番の整理改正が行われた際、下記の3つの町に統合整理され、現在に至っている。ただし、新しい町域の設定に際し、中野通りなどの比較的新しい道路を境界としたので、旧町のと新町の町域には多少の相違がある。

本町一丁目〜六丁目(←幡ヶ谷本町) 幡ヶ谷一丁目~三丁目(←幡ヶ谷中町・幡ヶ谷原町) 笹塚一丁目~三丁目(←幡ヶ谷笹塚町)

1882年(明治15年) - 幡代小学校の創設

1879年に制定された新教育令に従い、1882年に幡ヶ谷村と代々木村は従来からあった私塾を移して連合村立小学校「白木分校」を設けた。そして、1889年に両村合併して代々幡村となるや、白木分校を改称して「代々幡村立幡代小学校」とした。その後、幡ヶ谷地域は人口増加に伴って、笹塚小学校(1920年(大正9年))、本村小学校(1923年(大正12年)、のちに「本町小学校」と改称)、西原小学校(1928年(昭和3年)、幡ヶ谷原町の大部分を通学区域に含めて創設)、中幡小学校(1932年(昭和7年))と小学校を創設、整備していった。
玉川上水は、和泉から新宿への流れは従来は幡ヶ谷地域と代々木地域の境の辺を通っていたが、東京市の新水道事業で淀橋浄水場の完成を機会に、和泉から角筈の浄水場までほぼ一直線に土手を築いて新水路を通した。工事は1892年に着手し、1898年に完成した。新水道は東京市民に多大の恩恵を与えたが、幡ヶ谷地域は中央を高い土手が縦貫して地域が南北に分断され、長年にわたって土地の発展が妨げられ、住民が多大の不便を囲った。
京王線は1912年に笹塚 - 調布の区間を開通・開業していたが、引き続いて東への延長工事を進め、1914年11月には「新町」(現在の文化女子短期大学の西の地点)まで延長した。なおこの後、新宿終点までの延長が完成するのは翌1915年5月のことであった。 開業当初の幡ヶ谷地域とその周縁にあった京王線の駅は、西から「笹塚」、「幡ヶ谷」、「代々幡」(のちに「幡ヶ谷本町」、「幡代」と順次改称し、1945年に廃止された)「幡代小学校前」、「改正橋」(間もなく「初台」と改称)の4駅であった。
1932年に玉川上水が甲州街道の地下に埋設された水道管を経由することに伴い、新水路は廃止された。そして、土手も撤去されることになり、上流側から工事が始まった。しかし、その後の戦争の進展により、土手の撤去工事は上流側から七号橋まで進んだ段階で中断された。戦後になって工事は再開されたが、七号橋から下流側は土手が撤去されることなく整地されただけに終わった。そして、水路全延長の跡地に水道道路が作られた。
1945年(昭和20年) - 京王線「幡代」駅廃止 1978年(昭和53年) - 京王新線線開通。「初台」駅と「幡ヶ谷」駅が新線に移転
1932年(昭和7年) - 玉川上水新水路の廃止 1914年(大正3年) - 京王線の開通 1898年(明治31年) - 玉川上水新水路の完成